ポーンさんへ

04-16,2015

ずっと昔、ゲーム会社で働いていた若い頃、
その会社の社長との面談で、
人は努力すると、才能が枯れる。どうしてだか分かりますか。と質問されたことがある。

少し考えて、
経験や知識がある程度増えるので、そのせいで知った気になって、
新しいことを吸収しなくなるからでしょうか。
と答えてみた。

社長は、そうかもしれないね、と答えた。
社長にも明確な答えはなかったのかもしれない。
ただ、そういう事実だけを知っていたのかも。

その時のことを思い返すと、
当時私の言った回答は、要は、効率化とその弊害、という所だろう。

しかし、あれから15年くらいが過ぎてみて、わが身に鑑みると、
いかほどかそれなりの経験や知識を積んだわりには、
その積荷の重さのせいで、
効率化どころか、その真逆、
あらゆる作業が丁寧に、繊細に、無駄に、そしてトロくなっている。

もしや、かつての質問の答えは、真逆だったのかもしれない。

才能とは、知識や経験がないことによる脳の身軽さが生み出す、
軽快さのことなのでは。

そこには、無知故の、余計な邪念が入り込む余地がなく、
そのおかげで、
一切の無駄を省いたシンプルで素朴な、原始の表現だけに常に収斂される。
その粗暴なほどの躊躇いのない潔さのことを、
人は才能として認知するのかもしれない。


何故そんなことを、今日、考えたのかと言えば、
最近は何をやるにしても、信じられないほどに時間が掛かり、
もういい加減うんざりしてきて、
するとふと、
15年も前の、そのやり取りとのことを思い出したからだ。

思えば、私は他人に創作を求める時、
いつの間にか、飾った表現を嫌い、なるべくタイトな、シンプルなものを求めるようになっていたが、
それは自分の表現の肉体が肥満し、豊穣としたことによる反動、
あるいは、無意識の渇望のようなものだったのかもしれない。

多様な情報や表現手段を手に入れることは良いことだろうが、
それら全てを常に活かす完璧な表現では、
やがて身動きが取れなくなるような気がする。
見方を変えれば、そうしなければ保てないような危ういものかもしれない。

達人の格闘家は、
あらゆる経験や技を十分に体得したのち、
それら全てを忘れるが如く、
型を取らなくなり、
一見ただの老いぼれのようになり、
その実、造作もない自然な動き全てに技の本質が宿る"型破り"の領域に入る。

15年前の社長の懸念や、今の私の悩みに対する光明が、
そこに見い出せることに、
私はようやく意識的に気づいた。

膨大な年月、自らによって内包された何かに求道し続けてきた人への、
慰め的な記録になればと思いしたためてみた。